プラトン饗宴とコリント人への手紙から見る愛

不完全な人間だから愛を求める

今宵は魔術でもしばしば問われる、「愛とはなんなのか」の話。

この壮大なテーマについて、ユングはついに解明することはできなかったのですが、 彼の論文の中でペテロがコリント人へ送った手紙に触れていたので、有名になっています。

私は誰ともなくこの聖書の一説を贈りたいと考えました。
しかしながらこれはまだまだ未熟な私の解釈で、ひとつの見解だということを念頭に置かれてください。
しかも聖書の話をしているのに、魔女なのでペイガンであることをお許しくださいね。

 

魔女のタロット占い、カードの意味、占星術

 

コリント人の手紙(私的要約)

 

コリント人や皆々様へ

 

たとえ私が、どんなに強くて、特別な力を持っていても、 あなたがたに愛がなければ、それを使っても受け入れるどころか煩いと喚き立て、理解すらできないでしょう。

 

また誰かが、どんなに頭が良くて、身体能力に優れていて、なんでもこなせる人であっても、 あなたがたに愛がなければ、なんの価値も見出せません。

 

また、あなたがたが、どんなに心が優くて、弱き人々を助けるためにお金をだして、 薬を買って看病し、言葉をかけたとしても、あなたがたに愛がなければ、なんの役にも立ちません。

 

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。

 

礼儀と節度を重んじ、自分の利益ばかりを追い求めず、怒らず、人のした悪意ある行動や噂話、ネガティブな言葉のやり取り、世界は不正を喜ばずに真理を喜ぶので、そういった悪意は放っておいても淘汰されます。

 

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
いつか気付いてくれるだろう、と。
それまで私は何も言わずにただ見つめ、待っていようと思います。
何故ならばそれは、私がしてあげられることではないのですから。

 

愛は決して絶えることがありません。

預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

 

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、異言することも一部分だからです。
大部分からみれば、小さなことは、そのうち淘汰されてゆくからです。

何故なら、完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

春夏秋冬のように、うつろいゆく世界の中では、全てが不完全なものであり、矛盾をもっているものなのです。

 

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じました。
それは子どものように無邪気に感情を表現していたからです。
しかし、おとなになったときには、子どものことをやめました。
私は知識をもっていますので、感情だけではなくきちんと考えることができるからです。

 

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(死んだ後・霊になってから)には顔と顔とを合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

本当の、真理というものを。

 

だから生きている間にたとえ解らずとも、しかしながらこういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
愛を追い求めなさい。

 

…というように私は解釈したのだけれど、ここで愛というワードに着目されたし。

 

プラトンの「饗宴」

 

プラトンの「饗宴」は、真の愛とはなんなのか? をテーマに書かれているが、両性具有の話はご存じだろうか?

 

昔々、人間には男と女の他に、両性の結合した【アンドロギュノス】というものがいた。
それは手足が四本ずつ、顔が二つ、性器が二つあった。
だがゼウスがこれらを頭から真っ二つに両断したため、 二つに分かれた本性(今の男女)は互いに己が半身にあこがれて結合しようと求め合う。

 

…それが私たちなのだ、とまあストーリーの中で語られているのです。
(私的にはこのおぞましくも思えるような4本の腕が天使の羽根と勘違いされて、天使化されたのではと思いますが)

またギリシャ神話では世界の混沌(カオス)から愛(エロス)が生まれている。
つまりは失われた半身を求めるのがエロスなのだそうですよ。

 

と、すれば。
片割れの半身を探し求めている過程で、うまくいかず別れた場合(つまり本当の片割れではなかった場合)愛ではないのでしょうか?
魔術でも、占いでも、「あの人は運命の相手ではなかったのでしょうか?」というご相談が多いですのでね…。
いいえ、本当の愛とは自然のもの、ということではないでしょうか。

 

愛は自然から生まれている

 

世界の混沌(光も闇もすべて混ざり合ったところ)から愛は生まれています。
そんな所はとても自然的で、宇宙のような場所ではないかな?

 

また、愛と美の女神ヴィーナスも海から生まれてるので自然から生まれています。

また、世界の真理を表し魔術の基礎とされているカバラにおいても、愛を司る金星は「自然に広がりゆくもの」とされています。
(因みに対になっている火星は破壊をもつものです)

 

両性具有アンドロギュノスも、ゼウスに逆らって無茶するから真っ二つにされてしまったようですが、元々はそういう種族が自然な姿でいたわけですから。

 

しかし私たちはこうしたわけで、神が創りたもうた不完全なものです。
だから自分のことばかり考えると独り善がりに愛されたくて仕方ないのかもしれませんね。

私たちがペテロの言う愛の意味に気付けるにはあとどのくらいかかるでしょうか?
私もそれまで見守り続けようと思います。

 

<原文>コリント人への手紙 第一(13章1節~)

 

<原文>コリント人への手紙 第一(13章1節~)

 

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあやゆる奥義とあやゆる知識とに通じ、 また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、 また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

愛は決して絶えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、異言することも一部分だからです。
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

 

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、 おとなになったときには、子どものことをやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
愛を追い求めなさい。

 

恋愛ブレスレットのページへ!
↑黒魔術の恋愛ブレスといえばこれですね↑

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。