老子はあなた、あなたも老子!
今宵は2018年10月に魔女柘榴が行った台湾修行について、道教思想と西洋魔女思想の共通点の話。
老子のことばと魔女の教えに共通すること「ただ自然であること」とは何か。
道教の教えのほんの一部ですが魔術にも大事な考え方!
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道教とは
お恥ずかしい話なのですが、私は台湾を訪れるまでこれが道教思想である!
という予備知識が微々たるものしかありませんでした。
勿論、一般常識程度のものはありましたが、それを人に説明するとなると・・・といった感じです。
ですので発つ前に少し調べてみました。
すると、『道教』は調べれば調べる程奥深く、宗教的にも哲学的にも底が知れないものだと衝撃を受け、その衝動のまま関連書籍を購入するに至りました(笑)
(丁度木星射手座入りも近かったのでその影響もあったのかもしれませんね)
さて、そんな風にとても興味深い『道教』ですが、その根源的なテーマは『道(タオ)』への求道だと云われております。
『道』という言葉だけなら映画や漫画などでもモチーフとして取り上げられることが多く、詳しくはないけど知ってる!という方が多いかと思います。
- 道教には『哲学的な側面』と『宗教的な側面』がある
- 『道(タオ)』とは、宇宙と人生の根源的な『不滅の真理』を指すとされる
- 『道』という字自体もしんにょうが終わりを、首という字が始まりを表わしており、対極にもある『二元的要素』を指す
- 老子を祖としているが、一方でその存在自体を疑う声もある
- 道教の経典『道教経』、初期の教本として『荘子』、『准南子』がある
その中には宇宙と調和している『道』に従う理想的な生き方や、人々と宇宙の関係、瞑想の実践などがまとめられている- 道教のシンボルである『太極図』は、能動的・活動的である『陽』と、受動的・休養的(活動の反対語としてではなく、「対のもの」対照語としての意味合いで引用はこちらを採用しています)である『陰』が調和していることを表わす図のこと(Wikipediaより引用)
- 老荘思想(道家)を道教の源とみなす。
- 老子を神格化して太上老君・元始天尊などとする。劉向が神仙に加え葛洪が最高位とする。
- それゆえ「道」(タオ)を思想する。また「気」の身体への出入りを重視する。
- 深山幽谷に住む仙人のイメージをふくらませて、長生長寿昇天を主たる教旨とする。
- 古来の「卜占」「蠱術」や「鬼道」(シャーマニズム)を利用する。
- 陰陽五行説や占星術や「易」を援用する。
- 長生のための養生術を衣食住に及ぼし、さらに房中術(男女の性愛術)にも及ぼす。
- 消災滅禍のための「方術」「道術」をつかう。またその訓練をする。
- 錬丹術や錬金術を追求し、金丹などの薬物生成に長じる。
- 独自の護符(霊符)を多用して、ときに調伏もする。
- 神仙道と天師道を混合する。
- しだいに教団をもつ「成立道教」(教会道教)と民間信仰として広がる「民衆道教」に分かれていく。
- どんどん道教の神々をふやしていく。
- 風水も気功も、武術も漢方もとりいれる。(Wikipediaより引用)
宗教民俗学者、窪徳忠が簡潔にまとめたところによると、以下のように簡潔に説明している。
古代の民間の雑多な信仰を基とし、神仙説を中心としてそれに道家(老荘思想)、易、陰陽、五行、卜筮、讖緯、天文などの説や、巫の信仰を加え、仏教の体裁や組織に習って宗教的な形にまとめられたもので、不老長生を主な目的とする現世利益的な宗教である。(Wikipediaより引用)
このように様々な方面からも云われている道教思想。
実に興味深いと思いませんか?
道教の歴史
道教の歴史は古く、漢王朝時代(紀元前206年~220年)には宗教的な意味をもち始め、老子を神として崇めていたようです。
しかしながら確かな資料が残されていないため、その原型となるところ体系化され道教というかたちになる以前から存在していたかもしれません。
この頃、道教を信仰していた人々の中で最もその教えに長けた者は、信者を不死に導けるとされていました。
この『不老不死』への道を求める人々が練丹術を生み出していくことになったようです。
(ただしご注意いただきたいのが、人々が求めた『不老不死』の意味の解釈が違うということ。練丹術においてもそういう霊薬がつくれるなんてのは到底、現実的ではありません。この理由については長くなるので省略します)
その後、唐王朝時代(618年~907年)頃には宮廷でも道教が広まり、寺院が国家レベルで建立されるようになりました。
隋が滅びて唐の時代に替わった頃(日本でも遣唐使らによって仏教がもたらされ、聖徳太子や蘇我馬子によって『天皇記』や『国記』がつくられた頃)ですね。
天皇や権力者たちは積極的に仏像や寺院を建立していたので、どこのお国でも移り変わっていく世の中や疫病から、『誰か』に救いを求めようとしていたのかもしれません。
仏教、儒教、道教の違い
そもそもなのですが仏教、儒教、道教では全く性質が異なります。
細かい所は長くなりますので、今回のテーマでは詳しく言及致しません。
ざっくりと解説致しますと仏教での信仰対象は如来や菩薩などの多くの神々です。
仏教ではこの世の真理について『悟る』ことで幸せに生きるにはどうすれば良いか?という知恵を授かり慈悲の心を説くものだとされます。
信仰する人々はこれらの神々の慈悲の心によって悩みや苦しみから救われるというのが仏教です。
儒教は孔子が創始者ですが、分類的には無宗教であり、信仰対象としての神などはなく、人との関わり方を教える道徳的・宗教的なものとされます。
ですので、行動学や心理学といった学問といった方がしっくりくるのではないでしょうか。
特に『仁』についてのことばが多くあり、最も高度な愛といえる『仁』とは何か、について学ぶことができると思います。
道教は、老子や荘子を創始者とし、信仰対象の神々は多数(三清:道教における天(玉清天、上清天、太清天)をさす)であり、哲学的・宗教的なものだそう。
哲学的な面としては特にこれを信仰せよ、ということは言及しておらず、生き方のヒントを教えてくれるところは他の宗教と類似点が多く見られます。
道教もかなり寛容なところがあり、宗派によっては仏教や儒教についてもそれぞれにないものを補い合うべきと教えるものもあるようです。
このようにどれかが優れている、いないではなく『性質』が違うということを念頭に置いておくと、それぞれの宗教に対しての見方が変わってくるのではないかと思います。
現にアジア圏の中でも中国では仏教がほとんどを占めるのに、台湾では逆転して道教がほとんどを占めているというのもその辺りが関わっていそうです。
どの宗教でもそうですが、お国によって信仰人口に偏りが見られるのもとても興味深いですね。
道教と魔女の思想の類似点
道教は元々中国の民衆から自然発生的に生まれた民俗宗教に、老子や荘子の哲学的思想が加わったことで教えが体系化されたものだそう。
道教では人間ならば誰しもがもつ「幸せになりたい」「長生きをしたい」という願いを叶える方法を説いてくれます。
だからこそ「願いを叶えるためにはどんなものでも受け入れる」という考えが生まれたのだと思います。
だって、本当に本気で叶えたい願いならば、手段は選ばず、藁をも掴み、どんな労力をはらってでも叶えたいものでしょう。
「労力をかけたくない」「時間がない」「お金がない」「どうせ私って○○だから」なんて言い訳している時間こそ勿体ないと思いませんか?
『時は金なり』ですものね。タイムイズマネー。
(だから最近流行の『商品は欲しいけど原価かかってないんだから値下げして売ってよ』という人とかは、そもそも何か願いを叶えようと思ってもダメだと思いますね。理由は言わずもがな)まぁそれはさておき。
道教と魔女の思想の類似点が多い理由としては、恐らく民俗宗教がもとであることが所以でしょう。
生活の中でこうすると良かった、というのが口コミのように広まって、親から子へ、子から孫へと伝えられてきた数々の叡智が一つの「信仰」として根付いたのだと思うと、とてもロマンがあります。
魔術的な「願いを叶える」とは
実際、魔女の教えで「このハーブはこういうことに使われる」「恋愛の願いにはこのお守りをもつといい」といった部分もこのような歴史から生まれたのだろうと思います。
誰だって幸せになりたいし、できることなら病気せず長生きをしたいと願うのは当然でしょう。
だって生命の本質は生きることと増えることですからね。
じゃあ具体的に「幸せ」ってどういうことをさすのでしょうか?
好きな人と永遠に結ばれることですか?
一生困らないお金があって、死ぬまで遊んで暮らすこと?
あなたは『本当にそれが最終的な幸せ』で、それさえ手に入れば満足して死ねるのでしょうか?
いいえ、恐らく違うでしょう。
あなたはそれが理解できない限り、好きな人と永遠を誓い合ったとしてもきっと満足できません。
相手の心が確かに自分のものになり、確実に裏切らないという保証が得られるまでは次から次へと求めてしまいます。
死ぬまで遊んでいいと言われても、あなたは途中でそんな人生を味気なく思い、別のものを求めるでしょう。
お金があったとしても、物々交換ができるだけで『そのもの』にあなたは最終的に価値を見出せないかもしれません。
そりゃあるに越したことはありませんよ。
お金があることで『時間を買えたり』、『手段が増えるから』です。
お金はお金ですから、結局「どう使うか」が大切です。
宝くじで当たったとしても、家や車を購入してローンを返済し、じゃあその後どう増やしていくのか?
まで考える必要があります。
・・・となると、結局我々が本当の意味で欲しいものは生きている内には手に入らなそうですね。
引き寄せのブレスレットでも常々申し上げておりますが、『欲しい』と思っている内は手に入らないものなんです。
ここで「じゃあ具体的にどうすればいいんですか?」とよく質問を受けますが、ブログに書いてあります。
それが最大のヒントです。
道教も魔術も教えることは難しい
老子は始めに、「道の語られ得るものは、絶対の道ではない」と説いています。
言葉で言い表すことのできるものは『真の道』ではなく、『真の道』とは己自身で見出さなくてはならないということです。
勿論経典のことばや教えは大切ですが、あくまでひとつの道筋です。
例えば我々が願いを叶えるコツとしてブログの記事にしたためたりしても、それに対して「具体的にはどうすれば良いのか」、「これが正しいかわかりません」というお声があります。
少数ですが、ブログを読んだと言いながら全くご理解されていない方がいらっしゃることも事実です。
『正しさ』や『正義』は立場によって変わります。
絶対的な正しさなんてものを求めようとすれば本末転倒です。
結局はあなた自身が思うところが正義なのです。
また、言葉にした時点でそれは我々の思うものとは別物となってしまいます。
相手の心は相手のものです。あなたのものにはなりません。
だって親子であれ、恋人であれ、別の個体、別の生命体(エネルギー)ですからね。
100%相手のことがわかると言う人は疑ってかかった方が身のためですよ。
だからこそ我々のことばも100%だと思わないで下さい。
『この人は100%本物で、この人のいうことを聞いていれば絶対に幸せになれる』『だから私にその全てを教えて!』というのは大間違いです。
魔女のルールにおいても「全てを教えてはならない」という決まりがあるのは、それを防ぐためであり、その人自身の成長の妨げにならないようにするためです。
人が成長するとは何か
例えば幼いこどもが道を歩いていて、道端に尖った石や危険な遊具があったとします。
大人はそれが危険なものだとわかっているので、先回って石を取り除いたり、危険な遊具に近付けないようにするかもしれません。
大人はこどもが怪我をしないことに安心するでしょう。
ですが、そうやって育ったこどもは石や遊具がどんなもので、どんな危険があるのか理解しないまま成長してしまいます。
命にかかわるようなことを放置するなとはいいません。
大事なのは「何故危険なのか」「それはどんなものなのか」を己自身で考えること、考えさせることだと思います。
「私は放任主義なの」という方は、『無関心でいること、無責任であること』を『自由にさせてあげること』だと勘違いしていませんか?
テレビや本のいうこと、親や先輩方のいうことを100%聞いてしまうのは何故でしょう。
それは、あなたがあなたの行動や生き方に自信や責任がもてないからです。
万が一失敗しても、「あなたを信じたのに裏切られた」「嘘つき」だと責任を転嫁できるからです。
人類は全であり集合体ですが、あなた自身は『個』であり一です。
あなたの人生はあなたのもので、あなたが信ずるものこそ正義であると。
あなたが信じていることならば、あなたは惜しみなく努力をして力を発揮することができるはずです。
社会では人と関わりをもたずに生きて行くことはできません。
自然も同じで、移り変わり、常に変化していくものです。
すべては独立することなく、つながり、内包し、『存在しながら存在しない』ものなのです。
『ただ自然であれ』
老子の短い言葉です。
孔子が老子の元を訪れて、道徳というものについて尋ねたエピソードがあります。
孔子は『人が善き品格を養うことこそ最高の成就』だと考えていたようですが、老子は笑ってこう言ったそうです。
「品格のある人間は、そもそも品格などというものが存在するという事実さえ忘れているもので、道徳という言葉が何を意味するのか知りはしない」
そう言われ、孔子はただの老いぼれだというその男のもつ何かすさまじいものを感じて、空恐ろしくなり、震えながら逃げ出した。
そして弟子たちの元に震えながら逃げ帰ったあと、老子のことを「死そのものである」と表現しています。
自然であるならば、不必要に他者を傷付けることもなく追い求めることもありません。
道教も魔術も、どちらも内省的で自然なかたちであることが重要だとされます。
『道』について学びながら考えることは老子のことばと、魔女の智恵。
『人も自然の一部である』ことがキーになっていそうだと常々感じるのです。
願いを叶えるヒント
道教でも魔女の教えでも、人や自然を完全にコントロールしようとするなという教えがあります。
脳科学の分野において『セルフコーチング』というものがありますが、これは脳の仕組みを理解した上で自分自身を客観的に見て、上手くコントロールをしていく方法です。
ですが、その自分自身ですらきちんと受け入れることができていないとこの方法すら難しいのです。
そのための一つの手段として西洋占星術やタロット、ルノルマンやルーンなどがあるのですが、これを『自分を受け入れる』手段として使わないと占いに翻弄されるばかりになってしまいます。
蜜猫さんが既にブログ記事でご紹介されておりましたが、『占い』は未来予知でも何でもありません。
悪い結果が出たから悪い、良い結果が出たから良いという訳ではありません。
おみくじもそうです。
結果を過程として見れないと全く逆効果だと思います。
老子はこのようなことも言っています。
『故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随・・・』
有と無は互いに補い合って成長し、難と易は互いに補い合って完成し、長と短は互いに補い合ってコントラストをかもし、高と低は補い合って傾斜をつくり、音程と声とは互いに補い合ってハーモニーをつくり、前と後は互いに補い合って結びつく・・・
(訳:『TAO 老子への道 上巻』より 著者:OSHO)
一方を良いもの、悪いもの、と決めつけるとそこからバランスは崩れて行く。
どちらも存在するものだと受け入れることから『道』は開かれる。
『求めよ、さらば与えられん』とはイエスの言葉ですが、これについても同じことが言えます。
『求めたのに与えられなかった』という人は自分の心に問うてみて下さい。
あなたが欲しいものを求める相手は間違っていませんか?
その動機は正しいものでしょうか?
欲しいものだけ得ようとしてはいませんか?
神であれ、人であれ、価値観は己とは違うものです。
だから求めても得られなかった時はその事実を『受け入れるところ』からスタートだと思います。
完全なコントロールは不可能であり、ありのまま受け入れるということは、最も簡単で難しいことです。
これができるならば誰もが『願いを叶えることができる』でしょう。
あなたも老子である「ただのあなた」
完全を求めず、完璧を求めない。
不完全だからこそ当たり前で、自然であり、美しさを見出すことができるのかもしれません。
老子には、そんな不思議な魅力があると思います。
老子は神ではありません。
神のように見えるかもしれませんが、知れば知る程、『一人の老人』であると感じます。
彼は自然に、当たり前に存在していたに過ぎません。
老子は誰の心にも在り、あなたも、彼を知ることで老子になれるのです。
魔女であろうと誰であろうと、あなたは何者にもなれます。
『あなたがあなたを受け入れること』
自分自身の最も本質的な部分を受け入れること。
醜さも美しさも分けず、痛みも楽しさも内包した、それが『自分』だとまず、感じてみて下さい。
強く在ろうとしないで良いのです。
そこから『道』は開かれる。
これが願いを叶えるヒントです。