魔女柘榴の老子に学ぶ道教とその言葉1

老子のことばを考えてみよう

今宵は2018年10月に魔女柘榴が行った台湾修行でハマった道教・老子の教えを紐解きます。

老子のことばと魔女の教えに共通する「ただ自然であること」とは何か。

道教の教えのほんの一部ですが魔術にも大事な考え方!

 

台北市龍山寺など道教の参拝とおみくじ(台湾修行)|黒猫魔術店

 

 

執着は幸福と真逆である

 

彼はそれらに生命を与え、しかもそれらを我が物にはしない。
彼は行い、しかも着服しない。
成して、しかも何一つ主張しない。
何も手柄を主張しないからこそ、その手柄は彼から奪い去られ得ないのだ。

 

例えば、子どもとはあなたの血を分けた存在だ。だが、彼はあなたのものではない。
あなたは愛情を与え、あなたの時間を労する。
だが、子どもが成長した時にその分を返して欲しいと思うのはならない。
愛情も時間も、それはあなたが与えたものだが、決してあなたのものにはならない。

 

子どもではなくとも同じことがいえる。
想い人や、富やお金と考えてごらん。
あなたは彼や、お金に労力をつぎ込む。自分の元へ来てほしいからだ。

 

だが、それは直接的であってはならない。
あなたは努力をするが、それは相手のためではない。あなたのためにすることだ。
まして、これまでも言うように、あなたが欲しがれば欲しがるほど、それらはあなたから遠ざかってしまうだろう。

 

何故なら、それらはとても恥ずかしがり屋の女性のようなものだからだ。
自分の元へ来てほしいならば、ビューティフルな手法をとりなさい。

 

自分はこれだけやったのだから、来てくれないなんておかしい、などと言ってはならない。
あなたが手柄を主張すれば、それは有限のものになる。
だが、主張しなければ、意識にすら上らなくなる。<無>から奪うことなどできないからだ。

 

何も無欲になれというのではない。
ただ、過ぎた欲は執着になる。執着になると、それは有限になる。
有限のものは永遠ではない。有限のものはあなたのものにはならない。

 

無限のものはあなたから奪われない。
だからこそ、幸福とは<無>なのだ。

 

未来は知るべきではない

 

道(TAO)のエピソードの中には、『未来』について書かれたものもあります。

 

ムラ・ナスルディンの奥さんがソーナに会いに行った。ソーナとはタロットカードの占い師だ。

そして、奥さんはひどくかき乱されて帰って来た。未来というのはかき乱す。

未来に関するどんなことでも、人をかき乱すものだ。未来についてなど知らない方がいい。

なぜならば、一度あなたが未来に関して何かを知ったりしたら、それはあなたの現在を変え始めてしまうからだ。

そして混乱が起こって来る。

 

『ムラ・ナスルディン』とは、簡単に言うと『トルコの一休さん』といった方。とても楽しいとんち話などがエピソードとして残る偉人らしいです。
著者であるOSHOはこういった様々な国の偉人や神なども絡めて老子のことばを綴っています。

 

さて、タロットを扱う人は実に多くいらっしゃいますが、タロットを正しく使う方ほどいわゆる『人気の高い占い師』となります。
しかし人気があるということは需要があり、大小様々なお悩みをもつ方に出会うことが多くなります。

しかしその本質を見誤っている方というのは双方どちらにも存在し、酷いものは未来すべてを決定するかのようにふれる方も、望む未来を言って貰えず占い師を攻撃する者もいらっしゃいます。

 

何故『未来』を腫れ物のように扱うのでしょう?
何故『未来』にかき乱されるのでしょう?

 

幸せな未来を約束されていないと、絶対的なものでないと不安ですか?
絶対に変わらない未来の保証など、この世のどこにもそんな仕組みはありません。
でなければ占い師に翻弄されたり、未来を不安視したりと余計なものまで考えることになる。

 

老子は「自然を受け入れなさい」という。これは翻弄されることではありません。
ものごとを広く捉えることが占いの本質です。
悩んでいる時というのは背負うものや考えることが多過ぎるから、視野が狭まっているのです。

 

『未来』はあなたをかき乱すものですが、同時にあなたが変わるチャンスの風でもあるのです。
行動してもしなくても、あなたが選んだという事象が生まれるだけ。

 

生とは円環のものです。あなたは大地から生まれ、死ねば大地に還っていくだけ。
そこにはシンプルな流れがあるだけです。
人間は『考える葦』ですが、そのお蔭で余計なことまで考えがちです。

 

意味のない思考ならばやめてしまった方が良い。
意味とは、人間がエゴでもたせるものですから。

自然とはいつだって不確定なものです。確かなものは、その円環の理、≪真理≫があるだけ。
あなたはそのごく一部に存在しているに過ぎない。

 

生には何の意味もない

 

バラ自体は何ものでもない。それに意味をもたらすのはあなたなのだ。
人々が毎日のように私のところへ来ては、千と一つの違った言い回しで、くり返し繰り返し、生の意味は何なのか、と尋ねる。
生には何の意味もない。あなたがそれに意味をもたらす。あなたが意味を生み出すのだ。

 

美しいのはバラじゃない。
バラを見たあなた自身がバラの周りに美をつくりだすのだ。

 

著書の中では“生”に対して『意味を探し出そうとしないこと』、『意味を追い求めないこと』と言っている。
それは何故か?既に気付いている人もいるだろう。
意味というのは、客観的な事実ではない。
もし探索し続けてゆけば、あなたは、生は無意味だという真実に辿り着く。

 

生きることが無意味だというのではない。仏陀も生が無意味だということを知るに至った。
だが、彼はそこで立ち止まらなかった。
『生は無意味である』。だが、それはあなたの生が無意味でなければならないという意味ではない。
そこに意味をもたらすのはあなた自身なのだ。

 

生はあなたが意味をもたらさなければ無意味なのだ。
生それ自体には何の意味もない。円環の中で巡っていくだけだ。

 

あなたが自分の実存を生の中に注ぎ入れる、と、それは脈動しだす。
そうしてこそ、それは歌う、それは踊る、それは聖なるものとなるのだ。

 

神ですら、<彼>ですら、外に在るものではない。
神の所在や住所を尋ねてもそれは徒労に終わるだろう。
それらは始めから内に在るものなのだ。

 

神も老子も生も悪魔でさえ、外に求めても、結局は内に戻ってくることになる。
それらはすべて、あなたが意味を見出すものだ。

 

『生には何の意味もない』

じっくり考えなくとも良い。
答えは始めからシンプルなのだから。

 

社会という目隠し

 

人間は、路上で目にする馬車馬のようにして生きている。
荷車、トンガにつながれ、目には目隠しをつけられて、見ることを許してもらえない。
あまり見すぎると混乱してしまうからだ。
それに、もしあまり視界がききすぎると、馬はあなた方が行かせたい方向に進まなくなってしまう。
そこで馬たちは目隠しをされる。

 

私が常に思うところはこういった『目隠し』される教育による、すり込みへの危険性だ。
今や誰もが、大多数の人がその危機感をもっているに違いない。
だから「あなたはどうしたいのか?」と尋ねるとすぐに答えられない。
絶対的に正しい、『正解』を欲しがる。
絶対的なものなど社会の中には存在しないというのに!

 

あなたは社会の中に生きている。だが、馬じゃない。
『目隠し』させているのは社会全体なのだ。

 

社会全体が、あなた方の目に、あなた方の感覚に、目隠しをはめている。
というのも社会は、もし子供のままにしておいたらあなたが危険な存在でありつづける、ということを恐れるからだ。
社会は子供を出来る限り急いで成熟させようとする。
しかも、その「成熟」たるや、死以外の何ものでもないのだ。

 

教育というものの努力はすべて、あなた方の感覚に目隠しをして、あなた方が鈍感になるようにすることにある。
そうすれば危険はない。

 

社会はあなた方の感覚に目隠しをする。
あなた方の目は見えても、本当には見ていない。

 

さぁ『目隠し』をとって周りを見てごらん!
いつも通る道や、空や、音やにおいはどうだ?
子供のような澄み切った感覚を思い出してごらん。
太陽の色は本当に黄色だろうか?水の色は?葉っぱの色は緑色だろうか?

 

いいや、それは矯正された感覚、思い込みだ。
子供のあなたにとっては太陽はめらめらと燃え上がる激しい赤色だったかもしれないし、眩しいほど澄み切った透明な色かもしれない。
あるいはくるくると色を変える輝く虹色だったかもしれない。

 

世界はビューティフルだ。
その中に生きる我々だってその中の一部である。
あなたが駄目な人間だと誰がそう決めつけたのだ?

 

完璧な人間はビューティフルじゃない。
いつだって子供のようにきらきらと世界をみるあなたがビューティフルなのだ。

 

子供はエネルギーと愛に満ちている。
だからこそ社会は早く成熟させようとするのだ。成長じゃない。

 

本当のあなたはとてもビューティフルだ。
否定するのはそれに蓋をして抑えつけているだけだ。
ビューティフルなものの中に争いはない。『何もない』。
だからそこにはいつでも愛や喜びや驚きがある。

 

社会や世間はいつだって自分達がつくったルールに縛られている。目隠しされている。

これだけ覚えておくといい。
目隠しを外したあなたはとてもビューティフルだということを。

 

道と非道

 

われをして介然かいぜんとして知るあり、大道を行なわしむれば、ただ施(ななめ)ならんことをこれ畏る。
大道は甚だ夷(たいら)なれども、民は径(こみち)を好む。
朝甚だととのえば、田甚だあれ、倉甚だ虚し。
文綵(ぶんさい)を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余りあり。
これを盗夸(とうか)と謂う。非道なるかな。
(老子 第五十三章より)

 

『もし私に英知があり、『道』に基づいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。
大きな道は平らだが、(その道に関や検問所などがあったなら)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶだろう。
宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題になり、民の倉庫は空っぽなのに、王侯や貴族たちは美しい服を着て、鋭い剣を帯びている。
美味な食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』ではないか。』

 

人の上に立つ者は謙虚であらねばならない。
自然の中において人は人でしかない。

本当に英知ある者は偉ぶったりしないし、わかりにくく政を行ったりしない。
わざわざ余計なものをつくることもしなければ、贅沢をすることもない。

 

上辺ばかりの贅沢に踊らされ、自分達を顧みない。故に、自分を支えている者たちが疲弊していても見えず、剣で力を誇示し、必衰する栄華に酔いしれる。
やがて彼らは美味な食べ物にも飽き、有り余る財産があっても、何故それらが存在できているのか気付かないだろう。

 

これこそが『道』に外れた行為であり、非道な行いといえよう。

 

 

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