魔女柘榴の老子に学ぶ道教とその言葉2

老子のことばを考えてみよう

今宵は2018年10月に魔女柘榴が行った台湾修行でハマった道教・老子の教えを紐解きます。

老子のことばと魔女の教えに共通する「ただ自然であること」とは何か。

道教の教えのほんの一部ですが魔術にも大事な考え方!

 

台北市の歴史的建造物と自然の融合(台湾修行)|黒猫魔術店

 

問題という性質を『みる』こと

 

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。
大きくとも小さくとも、多くとも少なくとも、憎しみには徳をもって報いよ。
難しいことはそれがまだ易しいうちに処理し、大きいことはそれがまだ小さいうちに処理する。
世の中の難題は、それがまだ易しいうちに片づけられるべきであり、世の中の大問題は、それがまだ小さいうちに片づけられるべきである。
それゆえに聖人は、けっして大きな問題を相手にしないことによって、大きなことを成し遂げる。
軽々しく約束をする者は、その信義を守るのがなかなか難しいことを知るであろう。
多くのものごとを軽んずる者は、多くの困難に遭遇するであろう。
であるからして、聖人でさえ困難とするものごとはあり、そのために、けっして困難と出会うことはないのである。

(下篇第六十三章より『TAO 老子の道 下』)

 

『問題』というものは、延期に延期を重ねて、大きくなってから『問題』として認識されるようになる。
冷静に対処なさい、と言うのは行動することだけを指すのではない。

 

何かがあなたの中で問題として持ち上がって来そうになったなら、一度止まってみて、それが何であるのか?よく観察してみてごらん。
外側ではなく、中身を見ることだ。これが本質を『みる』ということだ。

 

力づくでなくとも、時にはあなたがちょっと微笑みかけるだけで充分なこともあるのだ。ただの笑いでこと足りる。それだけで、あなたは悪循環から一歩抜け出しているのだ。
何もいらないことだってある。

 

あなたが注目し、観察し、中身を見たならば、まるで太陽が昇るように、氷が融けてみずみずしい葉が顔を覗かせるように『問題』というものは消え失せてしまうに違いない。

 

著書の中には『意識という太陽をそこに当てるのだ。』という表現がある。
意識とは、あなたが向けるものだ。あなたがもつ太陽を向けることで見え方はいくらでも変えられる。

 

そうすると、問題は実に小さなものになる。それに比べればあなたは実に大きく、巨大であることに気付けるだろう。
あなたがそれを見るということだけでそれはがらりとその性質を変えてしまうに違いない。

 

ならばそれはもう問題ではない。
それはあなたの中で、生の中で、ひとつのドラマになる。

 

心の病とは何か

 

知らないということを知っている者が最上である。
知らないことを知ったかぶりする者は、心が病んでいる。
しかし、心の病いを病いと認識する者は病んではいない。
聖人は病んではいない。
心の病いを心の病いと認識するがゆえに、聖人は心の病いにかかっていないのである。

(下篇第七十一章より『TAO 老子の道 下』)

 

人間というものは玉ネギのようなものだと例えられている。
幾重にも重なった人格の層の、その下に本質が隠れていると。

 

これまでにもいうように、その本質は<空>のようなものである。実存というよりも非実存に近い。
実存的なものには限界があり、境界があるが、その内奥の核たる部分には境界などない。限界もない。
本質は<無>であるからだ。

 

著書の中で、われわれは三つの層を理解しなければならないとされている。

 

第一層はあなたの人格の最も浅薄な部分。形式や社交の層で、占星術でいえばアセンダントの部分。第一印象、人当たり、挨拶の部分を指す。
最も浅薄だからといってないがしろにしてはならず、それは必要なものだ。大事なのはそれを『使う』ということ。
第一層目はものごとをなめらかにすることに役に立つ。

 

第二層は役割とゲームの層とされる部分。第一層は生との接触はなかったが、第二層では時に関わってくる部分が出てくる。社会的な役割を演じる部分だ。
世の政治家たちや世界一の○○…こういった人々のほとんどはこの第二層での役割を演じ続けている。
この役割は皮膚ではなく、服のようなものだ。だからあなたはいつでもそこから抜け出せる。
上手く能力が発揮できるなら、立ち往生していないのなら、その点においてはビューティフルである。
人とは、あらゆる役割から自由であるべきなのだから。

 

第三層は最も深く、渾沌の層といわれている。この第三層のおかげで、人々は内へ入ってゆくことを怖がっている。彼らが第二層で立ち往生してしまうのは、そのためなのだ。
第二層は役割とゲームの層だからルールや規則がある。だが、第三層にはそれが何一つ存在しない。

 

瞑想ではこの第二層での服を脱ぎ捨て、第三層の渾沌へと入ってゆく感覚がある。恐怖すら覚えるかもしれない。
あなたは突如として、自分が誰だかわからなくなる。アイデンティティーは失われ、規則が消え失せる。まるで嵐の中の大海原のよう。だが、その中で見出した<理解>は第一層に上るまで影響を与えるに違いない。

 

第三層では一歩間違えれば気が狂ってしまう人もいる。
だが、少なくとも政治家連中よりマシで、気の狂った人というのは渾沌が自分を覆い包むのを許したに過ぎない。
第三層では狂気が起こるものなのだ。芸術家たちは往々にして第三層に生きているといえるだろう。

 

あなたが立ち往生するのは第一層か第二層での恐れがほとんどだ。さぁ、もう一度考えてみよう。

 

『心の病い』とは、層のどこかにひっかかったり凍りついてしまっていること、つっかえていて、まるで行き止まりにぶち当たったかのような状態を指す。そのままではその先へ行けないのだ。
幼子が大きな大人から通せんぼされているかのような感覚だ。
この時のあなたは無理矢理『何か』にさせられている。

 

このことを<理解>できたなら、塞がりは簡単に溶け始める。
一度それが溶け始めれば、あなたは再び流れを取り戻すことができる。あなたは流れ出す。

 

自由こそ健康なのだ。非実存の、核の部分まで突入する勇気のある者は滅多にいない。
だが、そこへたどり着いたとき、人は一人のブッダとなり得よう。

 

無為の価値

 

世の中で最も柔らかいものが、最も堅いものを通り抜ける。
形をもたないものが、隙間もないものを貫通する。
このことから、私は行為に出ないことの価値を知る。
言葉なき教え、そして行為に出ないことの価値は、宇宙に比べるものがない。

(上篇第四十三章より『TAO 老子の道 上』)

 

著書の中にはスーフィー(イスラムの修行者を指す)の小話についても書かれている。

あるスーフィーの托鉢僧は、神を求めて国から国へと渡り歩いていたが、彼を満足させてくれるものは見つけられなかった。
やがて彼はある森の中で瞑想を始めた。何ヶ月も、何年も「アラー、アラー、アラー」と唱え続けた。(『アラー』はイスラム圏で神の御名を指す)

 

彼らはただ「アラー、アラー、アラー」と繰り返し唱え続ける。自分達の最期の瞬間に自分のハートが、息がアラーの御名で、<彼>の想いで満たされているようにすること。それが彼らの言う『ジクラ』なのだ。

 

そのスーフィーは結果として十八年もの間一途に唱え続けたがそれでは充分ではなかったようだった。悟りや、ニルヴァーナ(涅槃)に至るまではまだ遥か彼方だった。
彼のハートは空っぽで、悲しみがあった。自分の祈りは無駄だったのではないか?分厚い繁みに覆われて、神が自分を聞きつけていないのではないか?

 

何年も祈りを捧げた場所がまるで吸血鬼のように見え、恐ろしくなり、そのスーフィーはほうぼうのていで真っ暗な真夜中に逃げ出した。

一方で、何里も離れたところに、ある町から次の町へ向かおうとする一人の乞食がいた。突如として、青天の霹靂のように、乞食の中にその森へ入って行こうとする衝動が沸き起こった。

 

乞食は始めは抵抗した。しかし抗うことは出来ず、彼はとうとうその森に駆け込んだ。そしてその木立に辿り着いた時、乞食には外側の耳で聞こえるものではない声を聞いた。
「私のところへおいで!」

その木立は信じ難かった。森全体が闇で覆われているというのに、その木立は微かな青い光で輝いており、まるで別世界のものといってもいいくらいだった。

 

その場所へ一歩足を踏み入れただけで男は全く別のものに生まれ変わってしまった。
それまで神についてなど、祈りについてなど考えたこともない男が、たった一瞬で、何十年も修行をした托鉢僧のように美しい佇まいで坐ったのだ。
生まれてから一度もそんな姿勢で坐ったことなどなかった。

 

彼の中にはある音が炸裂し、興奮が収まり、その音が聞き分けられるようになると、自然と口をついて出た言葉が「アラー」であった。
男はたった十八時間程度で、スーフィーの男が達しえなかった場所に、同じ場所でその域に達してしまったのだ。

 

スーフィーと乞食の違いは何であろうか?
『無為の価値』。
それこそがこの話の意味なのだろう。

 

男と女、易さと難しさ

 

神秘な女性の扉、それが天と地の根源である。
綿々としてそれは存続する。
それを用いれば、易々と役立ってくれる。

(上篇第六章より『TAO 老子の道 上』)

 

瞑想や宗教において男よりも、女の方が実は達するのに易い。
それは『明け渡す』ことが男よりも得意だからだ。

 

男は争わなければならず、居心地の良い家から出て行かざるを得ず、明け渡そうにも『帰って来る』まで距離があるからだ。
何故ならそう幼い頃から教え込まれているからだ。

もし幼い男の子がお人形遊びやおままごとをしていたら、親は「それは女のものだ」と取り上げてしまう。

 

最も自然なことは『女』でいることだ。
男だとか女だとかそんなものは関係ない。
どちらかが優れているいないの話ではない。

 

そういうものであるというだけ。

 

成功という観念そのものの失敗

 

屈することが完全なまま残ることである。
たわめられることが真っ直ぐになることである。
中空であることが一杯になることである。
ずたずたにされることが新しくなることである。

(上篇第二十二章より『TAO 老子の道 上』)

 

論理的に言うならば、もし10人が人生で成功しようと努力しているとしたら、その内の何人かは失敗すると理解するのが普通である。

失敗するのは彼らが成功のための条件を満たせなかったからだ。
これが論理ということだ。

 

ところが老子は、『全員が確実に失敗する』という。
これは非論理的である。
『成功する』という観念そのものが『失敗の種』なのだ。