老子のことばを考えてみよう
今宵は2018年10月に魔女柘榴が行った台湾修行でハマった道教・老子の教えを紐解きます。
老子のことばと魔女の教えに共通する「ただ自然であること」とは何か。
道教の教えのほんの一部ですが魔術にも大事な考え方!
完結した『生』を生きる
もしあなたのところに死がやって来たら、あなたは困ってしまうだろう。千と一つのものごとが不完全なままで残っていて、もう少し時間が欲しいからだ。ずっと、いくつかやりたいことがあったのに、あなたはまだ一度もそれらをやっていない。
(『TAO 老子の道 上』より)
あなたに突然死が訪れたとしたら、あなたは何を想うでしょう。
惨めな思いや後悔の念ばかりが浮かんでしまって、尚も生に縋ろうとするのでしょうか?
「わたしはただの一度もきちんと生きたことがないのです!もう少しだけ時間を下さい!」と。
『明日』などというものはマインドの中の一つのイメージに過ぎず、存在しているのはつねに今、『現在』しかないのです。
瞬間から瞬間へ完結した生を生きること。
それが何であれ、やらねばならないことは今やるべきなのです。
言わなければならないことは今、言った方がそこで一度、完結します。
方向転換が必要ならそこからまたスタートを切ることができる。
怒りや欲は先延ばしにしても良い。それは今でなくて良いものです。
ですが、愛は先延ばしにしてはならないものであり、今でなくてはならないものなのです。
完結した『生』を生きることで見えてくるものもあるのだから。
TAOと愛
外側の世界において、最も柔らかいものは水だ。内側の世界で最も柔らかいものは愛だ。そして、水と愛の二つは、数え切れないたくさんの点で似通っている。それらが理解されねばならない。水は窪んだ場所を求めて行く。愛もまたくぼんだ場所を探し求める。
(『TAO 老子の道 下巻』より)
あなたがエゴイスティックな人ならば、愛はあなたに達することができないでしょう。それはあなたという自我(エゴ)で満たされている限り。
あなたがあなた自身でいっぱいになっていて、愛が流れ込むスペースがないのです。
水は天から落ちていき、川の高いところから低いところへ。窪んだところからより深く窪んだところへ、そこに一切の力を加えることなく『流れていく』。
そうして辿り着いた最も深い窪みが海であり、そこでゆっくりと循環したあと、永い永い時間をかけてまた天へ還っていきます。円環の中は永遠で満たされている。
愛は虚ろや空っぽの中に向かって動いていくものです。
エゴイスティックな人たちが愛することができず、愛されることもできないのはそのためだ、と書の中にはあります。
『愛したい』と、『愛してほしい』というのはどちらも本質ではありません。
愛とは能動的なものではなく、受動的なものだからです。愛にかたちはありません。内側の世界で最も柔らかく、堅いものもすり抜けます。
だからこそ、そこには永遠が存在するのです。
全と一の関係
自分だけの目標や目的地などつくってはならない。<全体>の方がよく知っている。あなたはただそれにそってゆけばいいのだ。あなたをつくったのは<全体>だ。あなたの中で息づいているのは<全体>だ。
なぜ『あなた』が思い悩む?責任は<全体>にあずけておくがいい。あなたは、ただそれがつれてゆくところへ行けばいいのだ。(『TAO 老子の道 下巻』より)
思い悩む時というのは、主観的になりがちで視野が狭まっているものです。
<全体>というものに絶対的な意志はありません。
呼び方は様々あれど、それは『神の声』『心の声』ハイヤーセルフといったものかもしれません。
大切なのは、思い悩んでいるのは『あなた』しかないということ。<全体>とは水のようなものです。その流れを見れば、あなたが『どう』乗るべきかがわかるはず。
流れを見るには客観的、俯瞰的に見ることが求められます。
そうすることで、今まで激流であると思っていた場所が<全体>のごく一部であると気付けるようになるのです。
幸福も地獄も同じこと
<道TAO>というのはただの法則、ひとつの宇宙法則にほかならない。
もしそれに従って動けば、あなたは幸福だ。
もしそれに逆らって動けば、あなたは不幸せになる。
実際のところ、不幸せというのはひとつの“しるし”にすぎない。
ちょうど幸せがひとつのしるしであるように……。その法則というのがバランスだ。
もしそれに逆らって動いたなら、もしその法則に反して動いたなら、突然、あなたはバランスを失う。そうすると、幸福は消え失せる。
あなたは不幸せになる、悲しくなる、みじめになる。地獄が生まれる。
地獄というのはただのしるしにすぎないのだ。それと戦おうとしないこと。
ただ、自分がどこでその法則に反して動いたのかを理解しようとしてごらん。
それがすべてだ。そうして、元に戻る。バランスを得る。(『TAO 老子の道 上巻』より)
<法則>とは機械的なものではありません。
世のありとあらゆるものにはちょうど引力のように、変化のように存在するものです。
もしもあなたが『この世は地獄だ』と思うのならば、『自分』というものを明け渡してみましょう。
だれか他の人にではなく、それこそ<宇宙>でも、<自然>でも<世界>にでも構いません。
そしてゆっくりと『自分』へ還ってくればよいのです。
貧しいことが豊かさである
“窮乏することは豊かになることである。
多くを持つことは混乱することである……”(『TAO 老子の道 上巻』より)
貧しさが豊かであること。気持ちであれ、ものであれ、いかなるものであってもその本質は何も変わりません。
すべてを手に入れた王は果たして幸福だといえるのでしょうか。
毎日食うに困ることなく、欲しいものが簡単に手に入る王は豊かでしょうか。
周囲の人間がすべて自分に従い、逆らわず、思うままに行動してくれる王はどうでしょうか。
貧しさの中では空腹もあります。毎日食べられる物がある訳でもありません。
ところが、その最も本質部分においては、貧しい者は王よりも豊かであるのです。
この意味を『知ろう』とするのではなく『理解』できるならば、あなたはきっともう豊かさの中に在るのでしょう。
道(TAO)とは
“道(TAO)の語られ得るものは、絶対の道ではない。”
(『TAO 老子の道 上巻』より)
『言葉』を『言葉』としてしか受け入れられない内は、あなたには何も見えないでしょう。
本当の意味で賢い者の言葉は、彼らにしか理解できないことです。
瞑想も理解も、真理もすべて知識では決して辿り着くことができないものです。
ならば如何様にして生きるべきか?そんな疑問はどこかよそへやってしまうのがよろしいでしょう。
『生』は正しさなど求めていません。
いつだって、あなたはあなたでしかないのです。
草花や動物が生きようとして生きているのではないように。
『生』を『生』として意識をしている内にはただただ苦しいばかりです。
死は救いではありません。
<道(TAO)>が示すのは、多くの枝分かれした道の一つの入り口です。
『そこから入らなければならない』ということは決してないのです。